腰痛の度合いからして、あまりにも体育の見学が増えた私。

体育の先生からは、「あなたは個人プレーの競技はやるけど、集団での競技には出ないね。もしかして周りに迷惑がかかると思ってない?体育の授業はもちろん実技も大切だけど、それ以上に周りと協力して何かをやるということも大切なんだよ。今のままじゃ成績、あげられないな。」と言われました。また、「腰痛がどうして起こるのか医者じゃないから分からないけど、腰痛って筋力が弱すぎても起こると思うんだ。だから、足のこともあるけど、少しは体を動かすのも大切だと思う」と言われたこともありました。

結局、部活は高校二年の秋に大会が一区切りしたのを機に中途退部しましたが、その時にも顧問の先生から、「悲劇のヒロイン」と言われました。また、帰宅時間が早くなってからも、強い腰痛で寝ていると、怠け者扱いされました。
色々な場面で、ただやる気のないヤツだと思われていたのだと思いますが当時の私からすればそんな精神論はどうでもよく、「どうして周りはこの痛みに気付いてくれないんだ!」「気持ちの問題なんかじゃない。絶対、何か根本的な原因があるはず!適切な病院に行けば治るはず!」と思っていました。

部活を辞めた後できた時間を使って、近所の整形外科を受診したものの、私自身が自分が脳性麻痺という障害だということをまだ知らなかったこともあり、医師にも腰痛の原因は分かりませんでした。ただ、足が悪いということだけは伝えていたので「関節硬縮」という病名が付いて、「体が硬いんだねぇ!若いのに!リハビリしなよ!」と言われ、ホットパックを当てていました。
当時の療法士さんも私が脳性麻痺だということに気づかなかったことではっきりとした腰痛の原因も分からないまま、「う~ん。治んないねぇ。叩いたでしょ、腰。赤くなってる」と言われながら。温めたりストレッチしたりしながら、半年ほど通いました。
病院で温めたらその時はいくらかは楽になるものの、自宅まで徒歩で20分の間にまた元の痛みがぶり返し、結局は何時間も横になったまま休むことになるのです。

この時期は、「誰も私の痛みに気付いてくれず気持ちの問題だと言われ続けたまま、身体の痛みの原因もわからないまま、一生を過ごしていくのかな?」と考えていました。
精神的にも限界を迎えていたので大変辛い時期でしたが、学校では何とか周囲の速いペースについていこうと、毎食後にロキソニンを飲んで痛みをごまかしていたことを思い出します。
そして、自宅では「周囲を納得させることのできる正しい理由を見つけたい」という思いで、寝る時間を削ってまで必死に身体の痛みの原因を探っていました。

※二次障害の出かたは人それぞれであり、元の障害の程度や生活環境により掛けてきた負担などによって異なります。
※あくまで私の場合ですので、参考にして下さい。


[PR]

最初は気のせいだと思っていた腰痛でしたが、部活のトレーニング中だけではなく、ただ立っているだけでも腰に痛みを感じるようになりました。自分の身体の異変を初めて友人にも伝え、次のような会話をしました。

私:「ねぇねぇ。聞いて聞いて。最近私、腰が痛いんだけど…」
友:「え、腰痛?ねぇ、腰痛とかどんだけお婆ちゃんなの? 笑」
私:「ね!ホント!腰痛いとかヤバいよね!年取ったかなぁ?」
友:「でも、腰痛にも色々な原因があると思うけど。調べた?」
私:「調べたよ。ぎっくり腰と慢性腰痛だって書いてあった!」
友:「ぎっくり腰は動けないはず。やっぱり、お婆ちゃんだよ。」
私:「え!高校2年なのに老人と一緒なの?ヤバいねそれ。」
友:「ヤバいよ 笑 腹筋と背筋、30回から50回にしなよ! 笑」
私:「早く来てトレーニングしよう。体力ないしもっと走ろう!」

今考えたら笑えるやり取りですが、当時、最初は本当に、体力不足で腰痛が起こっていると思っていました。

本当は私の場合、腰部の筋肉の硬さと弱さ・腰椎前湾による負担・骨盤周囲の運動不良・下肢麻痺などの影響が複合的に絡み合って、痛みに繋がっていると思います。
最初はトレーニングの回数を増やしてみたものの、前湾や負担が強くなる一方なのに当然腰痛が治る訳がなく、そのうちずっと腰に痛みが残ったままになってしまったのです。
体育は初めは参加していたものの、50mを走るどころか歩くこともできなくなって、体育館で皆が行うバスケットボールをつく振動ですら腰痛が起こりました。だから見学をして先生を手伝うこともできず、体育の時間になると保健室に行っていました。

ついこの間まで皆と同じように動けていたのに、だんだん周囲のスピードについて行けなくなっている自分がいました。

動けなくなっていく自分を不思議に思いながら、この時期から、とにかく腰の痛みが強かったことを思い出します。

※二次障害の出かたは人それぞれであり、元の障害の程度や生活環境により掛けてきた負担などによって異なります。
※あくまで私の場合ですので、参考にして下さい。


[PR]


私が二次障害に気付くまでの経緯①を記載させていただきます。

私は、幼稚園から大学まで全て普通学級で過ごしてきました。

小学生の頃から部活でトランペットを吹いていたので、高校でも吹奏楽部に入りました。吹奏楽と言ってもオーケストラではなく、野球応援に出たりマーチングも行うような、活動的な部活でした。
その部活では基礎練習や体力作りの一環として腹筋や背筋など行い、時間のある時にはマラソンや縄跳びなどもしていました。

私が初めて体調の異変を感じたのは、17歳の春頃の腰痛でした。
16歳の冬までは全てのトレーニングについていくことができたので、体調を気にしたことなど一度もありませんでした。

でも、高校2年生になった途端、腰痛に気付くようになったのです。

「集合~!急いで~!」の掛け声で数歩小走りをした時に腰が痛みましたが、初めての腰痛だったので「気のせいかな?」とも思いました。でも、歩いたり小走りしたときなどのあとに同じ場所が痛くなるし、腰に痛みが残る時間がだんだんと長くなり、痛みの範囲も広がっていったのです。

「ん?なんだろう?」と思いながら。
それが脳性麻痺の二次障害であるとも知らずに・・・。

※二次障害の出かたは人それぞれであり、元の障害の程度や生活環境により掛けてきた負担などによって異なります。
※記載した内容はあくまで私の場合ですので、参考にして下さい。


[PR]


下肢障害故に身体にかかる衝撃を軽減する目的で、主にスニーカの中敷きとして使用しているのが足底板です。治療の為のインソールと考えていただければいいかと思います。
足底板を使っていると、履ける靴が限られてきます。私の場合の条件は、スニーカー・スリッポン・マジックテープシューズ。
とにかく靴選びが大変なんです!「ワンシーズン中、世の中に自分の履ける靴が1足あればいいほうかな」という感じです。


2年前、歩人館という販売店でフットプリントをした結果を添付します。

下肢麻痺による足部の変形や形態異常で、左右の数値が全然違います。でも、足底板のお蔭で治療初期よりは左右差がないと思われます。

最近は便利な機械があるものですね。またお願いしてみようかな♪

c0331680_01181932.jpg

[PR]
c0331680_14024002.jpg

幼少期からずっと、補装具である「入谷式足底板」を使用している私。
入谷式足底板とは、理学療法士の入谷誠先生が提唱・発案したもの。

私は入谷式足底板を扱っている病院の理学療法士さんに調整に調整を重ねてもらっています。
それにしても、8年間も使ってきた患者本人なのに、何一つ足底板のことを理解していない私。
足の解剖学や足底板に貼られるパッド一枚一枚が、身体のどの部分を改善させるために働いているのか分かっていません。

「長年足底板を使っている割に詳しく知らない。いい加減きちんと学ぼうかな?」そう思いながら調整に行った今日。
そしたら、たまたま担当の理学療法士さんから、「もし合わなかったら、自分で調整してもいいよ」と言われたのです。

「えー!怖い。。。」

この足底板にあるパッドは、理学療法士さんの目線から貼られた一枚一枚非常に意味のあるパッドなのです。
それを「合わないから」と言って動かすことは、1mm変わってしまっただけでも「どこかが痛い」ことに繋がってしまうのです。逆を言えば、どこかが痛くてもほんの少し足底板を調整するだけで歩行の仕方が変わり、それが症状の軽減に繋がるのです。

無痛の生活は、足底板上の微妙な位置関係にあるパッドを踏むことによって生み出される自身の姿勢と、無意識な正常に近い歩行によって支えられています。

それを知っている私だから、「もし動かし方を間違えたら…」と思うと、だいたい動かしたい場所は決まっているものの、怖くて動かせません。
先生曰く、「印を付けて剥がしてから合わなければまた元の場所に戻して、違う場所を動かして試し歩行を繰り返せば分かる。」ようですが。

帰宅後やっぱり合わない箇所があると違和感を感じるものの、「そんなことを素人の私がやってしまっていいものか」と。
「再度調整してもらおうかな?」と思いつつ、「時間は沢山あるし試してみようかな?」と、足底板を見ながら葛藤中です。


今が学びどきかな?


[PR]