6月も、残りあと3日ですね。

早いもので5年前の6月は、教育実習の真っ最中でした。

私の中学の恩師は、私の生きる道を作ってくれました。

今日、夢に出てきたんです^^

久々に夢に出てきたついでに「懐かしいなぁ~」なんて思っていると、私の恩師達は皆、「私に夢を見させてくれたのかな?」なんて考えました。

「この子は障害がある」という視点で私に接した先生はいませんでした。

一時期は辛かった時期もあったけどその時はきちんと助けてくれたし、その他のことは周囲と同じ足並みで皆と同じようにやらせてくれました。

その分大変なこともあったけど、それって、凄く幸せだと思うんです。

5年前、教育実習初日に母校で10年ぶりに恩師に奇跡的に再会した時、感動のあまり泣いた私に「お姉さんになったね」って言ってくれた。

「よく頑張ったじゃん!お帰り」って。

成人しているくせに、どこかで、「先生からこの言葉を聞くために頑張ってきたのかもしれない」と思った自分に、まだ子供だなぁなんて思ったり。

私が中学1年生の頃から恩師を追って強く教師を目指していたことは先生方は皆知っていたのですが、大学の帰りに電車内で教科書を持ったまま居眠りしていたら、「教師目指してる奴が居眠りしてどうすんだよ」と元担任の先生に起こされたことが何度かありました。久々の再会に寝顔だけで私だと気づいただけでなく、そんなお声を掛けていただけるなんて、愛があります♡ 笑)

成人して教育を学び一度は教育職に就いた私。「少しは先生に近づけてるのかな?」とも思いましたが、それが未だに全くできていないのです。

むしろ私は自分が苦手な性格だった教師の像に近づいている気がして焦った時期もありましたが、それだけに、昔先生方が私にして下さったことは、「自然でありながら、物凄いことだったんだ」と、実感したんです。

だから今でも私にとって恩師は当時と変わらず、雲の上の方なのです。
在学中や教育実習中だけでなく、大人になった今でさえ指標の方です。

私はもう、教育の道からは遠退いてしまった。

でも、そうやって振り返ることのできる思い出があるって幸せだなぁって。
学生時代を精一杯やりきったからこそ、今も思い出に支えられている。

私にその機会を与えて下さったのは、友人の前に、まず先生方です。

変わっていく自分の未来が不安になっていく時、
常に原点に立ち返らせてくれたのが恩師でした。

今は一筋縄ではいかないことも多いけど、
「お世話になった先生に恥じないように生きなきゃ」と改めて思いました。

またお会いした時に、良い報告が出来るように。

中学校の先生方がいなければ、15歳で命を絶っていたかもしれない私。
思い出すのが恥ずかしく、どうやって謝ったらいいのかわからないほど、

先生にはお世話になって、救われて、感謝なのです。

「学校は楽しいよ」「友達は宝だよ」「教育は素晴らしい」と、身を以て教えて下さった恩師。
良き人との出逢いや良き人からもらった温かいパワーで、私の人生は物凄く変わりました♡

先生からいただいた言葉が沢山あります。
これからもその言葉を胸に頑張ります^^
[PR]


私が友人について思うのは、
「いつもとにかくありがたい!」そして、「私の友人たちは本当に凄い!」

足が悪い私を、幼稚園の頃からサポートしてくれている。階段やちょっとした段差を降りられずにいると、すぐに助けの手を差し伸べてくれる。

でも、助けてくれる以前に、障害のある私と共に居てくれること自体に感謝しないといけないと思う。

私は幼少期から障害をオープンにしている。

下肢に障害があり外見から分かってしまうからということではなく、障害オープンにしても、私を「一人の“人”」として見てくれている、私の友人。

「障害があるから」という理由で判断せず「一人の“人”」として接してくれたから、学生時代の勉強・部活・遊びを通して、互いに切磋琢磨し合えたのだと思う。
普段から「ayanoはどうして足が悪いの?」と、私の障害について詳しい説明を求めてくれる友人もいたし、病気や障害をモデルにしたドラマが放映された後は、男子の協力者の割合も増えた。そこにおちゃらけは一切なく、「何でも手伝うから言って」という言葉を聞いた時は、素直に嬉しかった。
私の障害が脳性麻痺であると分かった時は友人から相談に乗ってくれたし、障害者手帳を取得する際には、私から友人に悩みを伝えた。「障害者手帳を取得したら何かが変わってしまうのか?」と悩んだ私が、制度上も障害者としてスムーズな移行ができたのは、友人達のおかげ。

高校の時、小学生の頃からの友人とケンカをした。

長年親友だと思っていた相手に「ayanoは行動が遅いから私の時間まで無くなる。」「障害者と居るとこっちまで障害者だと思われるから、もう一緒には居たくない。」と言われた。
この友人とは結局ケンカ別れしてしまったし、この言葉を聞いた時は意表を突かれたけど、「確かに。それこそが友人達の本音なんだろう」とも思った。

私こそ、障害のある方々と一緒に居る時に、今まで私を支えて下さった方と同じように、寛容な気持ちを持っていられるかどうか分からない。

私は周囲からの視線を感じたとしても大丈夫。でも、私と一緒に歩いている友人までもが私に向けられた視線を感じてくれているとしたら、強いと思う。

それでもいつも私と一緒に居てくれる友人には、ただただ感謝しかない。


[PR]


昨日、「どのように障害受容をしたのか?」という質問をいただいたので、20歳の時の障害受容に関して、記載しました。



私は、障害を持って生まれ・生きていくことは、「私の使命」と捉えることで、障害受容をしました。


私は、幼少期から「足が悪いということは何らかの障害や病気なのか?」ということが分かっていました。

学生時代に授業の一環で自分史を作る時などに母子手帳を見る機会が何度かあったので、その都度ある程度の傷病名について見当を付けていました。
一度母親に「私の病気って何?」と聞いた時、「医師からは垂直距骨と言われたよ」と聞いたことがあります。でも、それ以上は「そんなこと聞いて何になるの?」と叱られたことがあったので、聞かないようにしていました。
「垂直距骨という名前の病気か」と思ったり、自分の足が内側に向いていたので、内反足についても調べました。

腰痛が出て治療を始めたのは18歳の冬でしたが、その頃になると様々な壁にぶち当たり、「自分の障害名を知らされないまま」では耐えられなくなっていました。
その後も暫くは障害名を知らないまま通院をしていましたが、たまたま足の不調で別の整形外科で診察を受けた際、医師から「垂直距骨はそれだけで発症することはない。何らか大元の障害があるはずだから、担当医に聞いたほうがいい。それに、レントゲンを見る限り、明らかに垂直距骨と言える状態にはない」と言われたのです。

それによって私は、母から聞いた垂直距骨という障害名や調べていた内反足という障害名が、本当の障害ではないことが分かりました。
また、それまでずっと悩んでいた私でしたが、医師の言葉で「本当の障害名を聞く」ことを後押しされた気がして、決心が着きました。

脳性麻痺と聞いた時は、頭が真っ白でした。「脳性麻痺だけは絶対違う」と思っていたので、まさかでした。

普通学級で教育を受け続けた私にとって、脳性麻痺とは重度障害者の印象があったし、教師を目指し大学で教職課程を履修していた私が、ボランティア・介護体験・特別支援学級訪問などで関わらせていただく相手が、脳性麻痺なのです。
正直なところ、まさか自分が別世界だと考えていた相手と、同じ障害を持っているとは思いませんでした。
それに、垂直距骨や内反足であれば足部の形態異常なのに対して、脳性麻痺であれば大元が脳機能による障害なのです。単なる形態異常と脳機能の異常の違いや脳性麻痺の詳細については、障害児に関する本を読んでいたこともあり、よく分かっていました。

私はずっと、「足が悪いとはいえ頑張れば治る・治せなくても生活に支障がない状態でいられる」と思っていたし、18歳で腰痛治療を始めた時も、ゴールは「治す・治る」だと思っていました。
だから、「脳性麻痺だから治らない」と知った時は放心状態で、地獄そのものでした。人生で一番のドン底だと思いました。
「聞かなければ良かった」と思ったことも何度もありますし、誰からどんな励ましを言われても納得できず、落ち込んだまま、立ち直れませんでした。

でも、病名を聞いて1年程経つ頃に、「(障害を持って生まれ・生きていくこと)それがあなたの使命だから」と言って下さった方がいました。

それまでは誰が何と言っても立ち直れなかったのに、「使命」という言葉を聞いて物凄くスッキリして、やっと視界が晴れた気がしました。
それからは自分の障害を「使命」と捉え、「宿命を使命に変えて生きていこう」と、決意や覚悟ができました。
病名を成人してから知らされたので、きちんと検査してこなかった分今明らかになることも沢山あるのですが、過去に一生分泣いたし、これからも「何があっても大丈夫」と腹をくくれるようになりました。

脳性麻痺の原因となった脳奇形の跡と病名が分かったのが、23歳で頭痛を起こしてMRIを撮った時です。そのことで、20歳の時に脳性麻痺と言われたことに対する確定診断がされたような気がします。
なぜ垂直距骨と診断され、脳性麻痺と言われなかったのかについては、最初の医師が気付かなかったのかなと思います。障害の程度が非常に軽く、私を初見で脳性麻痺だと分かる医師はまずいないので、出生後なら猶更かなと思っています。

両親も、医師から言われた診断名を、長年疑うことなく過ごしてきたのだと思います。


[PR]

今考えれば、幼稚園卒園の頃から「先生になりたい」と言っていた私。

内容はコロコロ変わるものの、日々温かい先生方に支えられてたから、早くから憧れていたかもしれません。

「学校の先生・病院の先生・PT/OT・看護師のどれかになりたい」と言っていました。
年齢が上がってもその想いは変わることはなく、中学校の時に1人の先生との出逢いで教師を目指しました。
その想いは本当に強く、長く変わることはありませんでした。
途中で志望教科を国語から英語に変えましたが、高校の半ば位までは、教師になる進路を考えていました。

高校3年生になって進路について真剣に考えた時に、「教師になりたい」と言っている自分の気持ちの大半が、恩師に対しての憧れであると気付いたのです。
「先生のことが好きだから、私も先生になりたい」と言うのは子供で、「そういう気持ちを抜きにしても教師を目指すのか」考えたら、気持ちが乗りませんでした。

だから進路を考え直しました。
でもその答えは簡単で、すぐに「PTになりたい」と思いました。

考えてみれば自分の体験からして幼少期から病院職にも興味がありました。また、その時は腰痛治療の真っ最中だったので「障害のある私だからこそ、PTになるべき」と思いました。
指定校を沢山持っていた私立の高校に在学していた私は出願先を変えればいいだけの話で、すぐに希望する専門学校を見つけて、入学試験の勉強もしていました。

でもそのことを母親に伝えると、大反対だったのです。

「PTになるから、専門に行くね♪」と言った私に、「ダメ!」と。「は??あんた今まで教師になるって言ってたんじゃないの??」と。
「いくらかかると思ってるの?」から始まり、猛反対され続け、PTは体力仕事との思いで心配だったのか、しまいには「専門に行くならお金は出さない」と言われました。
大ゲンカ・大号泣の末、推薦入学まで決まっていた学校の願書を入試前に破り捨て、進路変更をする羽目になりました。
当時は奨学金のことを考えていなった私ですが、今考えれば、奨学金を借りてでも入学すべきだったと思っています。

再び進路を教師に戻した私はやる気ゼロ。

志望校をなかなか決められない私、担任の先生に聞かれて返した言葉が、「もう、どこでもいいです。」
「どこでもいいことはないだろ。真剣に考えろ。」と言うから、「真剣に考えた結果、出した結論の進路に猛反対されたんです。その気持ち分かりますか?他になりたいものはないし、行く所もない。」と返しました。
あとで担任の先生から聞いた話では、「あまりに本気の言葉と本当にどこでもいいようなギリギリまで動かない素振りに焦った」ようで、結局は先生が私に1校提案してくれました。
そして願書締め切り当日に郵便局に滑り込み投函して、本当にその学校に進学しました。

「自分の障害が原因で、中学校~高校の間に他人を説得させるだけの体力や能力を身に付けることができなかった。だから専門学校に入学できなかったんだ。勉強や部活だけじゃなくて、リハビリもしていたら…」という思いが、今でも消えません。
そういう悔しい思いが原動力になっているから、大学在学中もリハビリを続けながら、何冊もの専門書に目を通して勉強してきました。そして、今でも障害やリハビリについての情報収集が楽しくて仕方ないし、今後、社会人入学も考えています。

「リハビリは手段であって目的ではない」とよく言われます。

でも「脳性麻痺者である自分へのリハビリ時間は、PTになれなかった自分を納得させるために使おう」と思っている私にとって、リハビリはそれだけで大きな目的です。だから、止めることはできないのです。

もし私がPTになっていたとしても、体調や能力を考慮すると、いつかは辞めなければいけない時が来ていたと思います。
だとしたら。今、脳性麻痺者である自分自身に対するリハビリをするほうが、余程リハビリのことを学べていると実感しています。

だから、今は今で幸せです。

でも・・・。

一度しかない人生、障害の有無にかかわらず、楽しんだ者勝ちです。
これから進路を選択する方には、後悔だけはしてほしくないんです。


[PR]

中学生~高校生の時、高い所が怖くて怖くて、仕方なかったです。

体育館の舞台の上とか、合唱コンクールや吹奏楽コンクールで使うひな壇の上とか、パフォーマンスで足場の不安定な場所に立つ時とか。

腰痛治療を始める時に教えていただき下肢麻痺が一因だと気付くまで、周囲からはただの“あがり症”だと思われていて。
「もっと堂々としなきゃ!」とか「もっと自信持って!」とか「場数を踏めば慣れる」とか。「練習次第でどうにかなる」という精神的な要因で解決する問題じゃないんですε-(´∀`; )

下肢麻痺が原因で、左右均等にグッと踏ん張ることが出来ないんです。
下肢の過緊張が原因で、その代償として体幹を過度に反って反り腰で立つ分、景色が斜めに見えたり。
加えて「高い所は怖い」とか「見られている」という心理的な緊張で、身体に筋緊張が起きてしまうし。
身体のどこでどのバランスを取っているのか分からないような、フラフラとした不安定な雰囲気でした。
小学生の時は全く恐怖心を持ったことがないので、腰の反りが強くなってから難しくなったと思います。
ということは今のほうが怖くないかなとも思いますが、今は、下肢の筋力と支えが弱いので難しいかな。

一人で立っていると、身体が固まってきて徐々に目線が下がってしまい余計に恐怖心が増すのです。でも、「大丈夫」と支えてもらうと、心理的な安心と身体が安定するから、舞台スレスレに立つことも可能でした。

最近は視野欠損のことも分かったので、下側が見えていない分余計に怖かったんだろうなと気付きました。

不思議なもので、マーチングやパフォーマンス等で動いている時には、緊張しないんです。
「次の動き」に向けて絶えずカウントをしているから、緊張する余裕もないんだと思います。
舞台に立つ前に先生や友人と抱擁や握手をしたり場当たりをした場合も、緊張しませんでした。
舞台から見える景色やその場の雰囲気にあらかじめ慣れておけば、何とか大丈夫だったようです。

最初から障害とそれによる影響がが分かっていれば、それを周囲にも伝えて適切な対処もできたのでしょうが、まさか下肢麻痺が原因と思わないので、毎回毎回「嫌だなぁ」と思いつつ、ひどい時は胃痛がする程でしたε-(´∀`; )
冷や汗もので頑張っていましたが、今思い出しても嫌かもしれないです。
だから当時の自分には、「ホントに頑張ったね。無理しなくていいよ。」って言ってやりたいくらいです 笑

卒業式での舞台横からの階段昇降も難しかったのですが、
ひとつ前の順番の子に下で待っていてもらって、手を借りていました。
[PR]


中学3年生の時だけ、いじめというか、嫌がらせをされてました。

後にも先にもこの時だけで、他はどの年齢でも良い友達に恵まれたと思っているので、たまたまその時一緒になったクラスメイトが良くなかったのかもしれないですね。
元々は、どの年代を考えても、いじめをするような治安の学校・地域ではないですし。
私一人にというよりは、クラス全体に対して意地の悪い数人から“嫌がらせ”が行われていました。
登校すると上履きに画びょうが刺さっていたり、上履きが水浸しになっていたり、ケースに入ったままの色鉛筆や、筆箱の中に入っていたシャーペンなどが折られているという子もいました。
私は変なあだ名で呼ばれたり、尖足での歩き方を真似されていました。

大人が「中3だから、悪ふざけの一環」と片づけてしまうのは良くなくて、どう考えても嫌がらせするほうがおかしくて、卒業から13年経った今も、悪質だったと思っています。
だからこそ強く教師になりたいと思ったし、実際に母校に教育実習に戻った時も、かなり意識して「いじめはどんな理由があろうとも絶対ダメ」と伝えていました。
私の場合は、中3になってすぐ嫌がらせをされていたものの、数か月は誰にも言わずずっと我慢していました。だけど部活の友達に会った時に不意にも突然泣いてしまったことで先生方にも気づかれてしまいました。

部活は大所帯の吹奏楽部でしたが、そちらは非常に楽しかったので、救いでした。

中3の時の担任の先生は、基本的な考え方が「悪ふざけや嫌がらせを乗り越えるためには、ハッキリと思いを伝えない・表現しないほうも自己改善の努力が必要」という方だったので当時の私にとっては支えにならず、代わりに学年の枠を超えた他の先生方や、他の中学校に異動なさった中学1年生の時の副担任の先生に相談させていただいてました。

中学1年生の時の副担任の先生は私の生涯の恩師で、先生がいたから嫌がらせを受けていた当時も不登校にならずに済んだし、私が教師を目指す根源の出逢いにもなりました。
また、この先生とは、私が教育実習で母校に10年振りに戻った時に感動の再会を果たすことができました。

実は、この時のいじめの主犯格の一人だった女の子と、昨年11年振りにバッタリ会いました。私に和気あいあい・ニコニコと話しかけてきて、11年前の事など覚えていない感じでした。
「11年も経てばそりゃお互いに大人になったし、もう笑って話せる思い出話にもなっているのかな」と思いました。

当時を考えると、いじめや嫌がらせは良くなくて嫌がらせするほうがおかしいという思いがある一方、「私の場合はちょっと違うのかな?」とも思ってます。
私が自身の障害について知らなかったことや、自身の障害を学校に詳しく伝えていなかったのと同様に、クラスメイトにも私の障害のことを伝えてなかった。
入学した後すぐ友人から、私以外のクラスメイトが全員揃っている時に、担任の先生と副担任の先生が「あの子は足が悪いんだ。でも、仲良くしてあげてほしい」と皆に言っていたという、ありがたい話を聞いたことがあります。

でも学校としては、学校全体として私の障害のことを周囲に伝えるのはそれで最後にしようと思っていたのかもしれません。
だから、尖足歩行の真似をされた時、何も言えなかった。

過ぎてしまった時間だけはどうすることもできないけれど、もしもあの時、周囲に「何?私の障害ってこういうものなの。」と言えていたら、初めから私の障害のことを伝えていたら、「どんなクラスになっていたのだろう?」と思うのです。
それを知らない子どもが興味本位で尖足歩行の真似をしていたなら。
「障害のことは言わない」としていた大人の事情の問題もあり、「一概に嫌がらせをしたクラスメイトが悪いとは言えないな」と、今でも思うのです。


[PR]


昨日、またふと思ったこと。
『集団行動』
やりたいなってずっと思ってて。

『集団行動』って知ってますか?
日本体育大学の伝統行事です。


名監督方のご指導により、素晴らしく揃う感動的な動きを何度かテレビで拝見したのですが、どうも集団行動を見ていると自分が中学生〜高校生とマーチングをしたことを思い出して。

私は小学生〜高校生と吹奏楽部に所属し7年間トランペットを吹いていたのですが、吹奏楽部は管弦楽部とは違い、文化部とはいえ本当に活発です。
私の出身校は全てマーチングを行う学校だったので、私もその一員でした。
中学生の時にはマーチングコンクールで東関東大会に出場したり、高校でも全国大会を目指すような部活の一員だったので、統一感のある綺麗な足並みを目指す時に、私が参加するか否かは相当悩んだのですが。
ありがたいことに、毎回「賞を取るよりも楽しみたい。だから一緒に出て欲しい」と言ってくれる周囲のお陰で、私も全てのマーチングに参加しました。

とは言っても、その頃は腰痛真っ只中で、リハビリも行ってなかったことで身体がガチガチでした。

「頼むから皆んなに合わせてこのラインまで来て」「なるべく足を内側に入れないで歩いてほしい」「後ろを振り返らず真っ直ぐ下がって」とか。
なかなか難しいことも多く、たまにぶつかりつつ、涙涙で練習することも多かったですが。
(何かあるとすぐ泣く所が中高生らしく吹奏楽部らしく、またそれも含めて青春ですよね♡)
支え合いながら長いときは10分近くなる全ての動きを完成できた時は、毎回本当に感動でした。

でも、懐かしいマーチングを思い出しては思うのは、「今マーチングをしたら、学生時代より綺麗にできるはず」ということ。
姿勢は今のほうがいいはずなので、当時周囲に掛けてしまった沢山の迷惑も、今は少ないんじゃないかって気持ちがいっぱい♪

当時はよくまぁ動いていたと思うけど、また動いてみたいと思うんです。
不思議なもので、動ける時には休みたいと思うのに、動けなくなると動きたいと思うんですよね。
人間ってつくづく欲深いなあと思うけど、動けないからこそ動きたいと。

元気な昔の動けていた自分に、戻りたいと思うことがあるんです。
壁ばかり見つめてリハビリしても、ただ塞ぎ込むだけですもんね。

動画共有サイトで『集団行動』・『マーチング』と検索すると、
頑張っている学生たちの沢山の汗と涙の結晶が出てきますよ!


[PR]


幼いころは自分の障害について知らなかっただけで、自分が普通学級にいた障害児ということは変わらない。
だけど普通学級にいるからには、周りの子どもたちと変わらず、私も同じことをしてきた。


皆と一緒に私も林間学校も行ったし、登山もしました。
小4~高1までずっと。

小学校のときに登った山は今考えれば大したことない勾配なんでしょうが、当時の私にとっては結構大変でした。家族と下見に行ったときには、泣きながら練習したことあったなと思い出したり。
中学生の時は樹海を完歩し、高校生のときは富士山に登りました。樹海のときは一人で必死だった気がするけど、富士山のときは友達を道連れにした気が…。

登る時はいつも、「登るのか登らないのか?途中で止めるのはみんなに迷惑が掛かるから、止めるなら今。そうしないなら最後まで止まるな。」と自問自答をして。
負けず嫌いだから全て途中でリタイアしたことはないのですが、いつも完歩すると、待って下さっていた先生方が泣いてるんです。
「頑張ったね!」「凄いね!」「感動した!」ってことでの涙ですが、素直にありがたい反面、涙が不思議でした。

「私は私のできることを、出来る範囲でし終えただけなのに」それで皆は「早くしなさい」と言われるのに、私は自分にとって当たり前のことを当たり前にしただけで、泣かれる。
ゴール地点に着くと友達に混ざるより先に、涙涙の先生方と抱擁です。

肝心な私はというと、「ああ疲れた!遅くなってスミマセン!やっと着いた!お待たせしました!さ、行きましょっ!」と、サッパリしてて 笑

ありがたいことです。
私がクラス担任なら、温かい気持ちを持って待ってられるか分からない。

常に受け入れて下さる姿勢だからこその、先生方の涙なんでしょうね。
周りの皆に感謝です。


[PR]


今日は体育の授業について。
あくまで私の場合ですが、参考になれば嬉しいです。

個人競技          
★水泳★陸上★鉄棒★縄跳び★跳び箱★マラソン


集団競技
☆テニス☆サッカー☆バレーボール☆ドッジボール☆ハンドボール☆バドミントン☆バスケットボール☆フリスビー

★の個人競技は、時間を掛ければ延々と練習できるので、身体が動く限り上達可能な気がします。
特に私の場合負けず嫌いなのもあり、陸上以外の競技は周りの子と同等に行っていました。
☆の集団競技内でチームを組むものは、私が動けなくても同じチーム内に動ける子がいるので、中に混ざって参加することが可能です。
逆に「すごく迷惑掛けたな~」と思うのは、ペアを組んでマンツーマンで行う競技です。
球技などの投げる動作は飛距離がないことで、打つ競技はラリーが続かなかったりすることで、相手を長々と待たせてしまったりして申し訳なかったと思います。

ボールを取りに行く時間が多くほとんど相手の役割がなかったので、体育の難易度が上がり周囲の子と身体レベルの差が付いた高校生から、私だけ体育の先生とペアを組むことが多かったです。
先生が私でもミスせず返しやすいところに上手く出してくださるので、個人特訓のような時間となり、友達にペアを組んでもらうよりは、お互いに上達に繋がった気がします。
 
陸上だけは何度やっても上達しないと思いました。

ハードルは上手く跳べなくて。ハードルの前まで走っても、高すぎてジャンプでは越えられないので、ゆっくりまたいでました。
高校生の時の走り高跳びに至っては、全て見学した記憶があります。腰痛もあったし、あまりにできることがなかったから...。

スキーやスノボード、スケートは雪国ではないのできちんとやったことがなくコメントできませんが、「絶対できる!やればできる!」と諦めずに指導してくださった先生のお陰で、私でも随分とできることが増えました!

・水泳 - 小学5年生・飛び箱 - 中学2年生・スキップ - 中学1年生
・逆上がり - 小学4年生・二重跳び -社会人1年目

時間は掛かりましたが、こんな感じでマスターしました♪


[PR]

小学校4年生から、放課後のクラブ活動がありました。

私は20歳まで、自分の障害について、一切知らされてませんでした。
普通学級に在籍しているから当たり前が当たり前だったし、私も普通。
疑いもせずに、皆がやっていることと同じことを、私もこなしました。


だから、小学生の時のクラブ活動の内容は、自由に選びました。
身体のことは一切気にせずに。

4年生の時は、手芸クラブ。
私はあまり家庭科が得意じゃなかったけど、勧められたから。

「糸通し」使っても、針に糸を通すのが1時間かかったのです^^;
はさみ使いもうまくないから、フェルトや布を切ってもギザギザ。
作品展示は、細めのゴム紐に大穴のビーズを通したネックレス 笑
友達と一緒に入ったけど、全然楽しくないから辞めちゃいました。

そのあとは、バトミントンクラブ。
身体を動かすのは、素直に楽しかったです。

シャトルを離すタイミングとラケットで打つタイミングがうまく合わなくて、サーブがうまくできなかったから相手を待たせて申し訳なかったけど。

先生が「サーブはやらなくてもいい」としてくれたので助かりました。

そのあとは、トランポリンクラブ。
新設のクラブで楽しそうだったから。終始ただ跳んでいればいいし^^
男子が沢山参加したから、思いのほか弾んで立つタイミングを失ったり。

最後はパソコンクラブ。
ひたすら友人とソリティアをやって遊んだなぁ!と覚えています。

障害があっても、やりたいことをやる。
出来ることを出来る範囲でやるじゃなく
やりたいことを出来る範囲でやっていく


そして、そのような「環境作りができる人・場を増やしていくこと。
それが大切だと思います。


[PR]