「歩くことが、使命だから。」


治療家が求める結果と患者が求める結果というのは、いつも一緒という訳ではないですよね。
「どちらが良いか?」というわけではないから、私は、それぞれの想いがあっても良いと思う。

例えば、歩行を診ている治療家が目指すものは、『綺麗な歩行』(正常に近い歩行)や、それによって『痛みなく歩けるようになること』なのかな。

患者から「綺麗に歩けるようになりました!」や「痛みのない生活ができるようになりました!」という言葉が聞けたら・治療家が理想とする歩容になったら、治療結果が出て患者のQOLも向上し、幸せも広がると考えるのだろう。
確かに、正常歩行に近い形で歩けることや痛みなく歩けることを必要として目標とする患者さんもいるだろうし、異常歩行を修正することは、大切だと思う。
でも、脳性麻痺者の場合、異常歩行の修正はそう簡単に出来るものではないし、少なくとも私は、「歩くことは幸せなことなのだろうか?」と感じてしまう。

動けない者の苦悩があるのと比較出来ないくらいに大変なのは『超軽度者の生活』
困った時だけに頼る車椅子やクラッチやT字杖は無くて、いかなる時も『歩く』だけ。
『軽度』ではなく、『超軽度』。だけど『健常者』ではなく、『脳性麻痺者』である現実。
疲労がのしかかる度に感じる「果たして歩くことは幸せなのだろうか?」という疑問。

体は資本で永く持たせることが大前提と考えれば歩くことだけが答えでは無いし、疲弊と同時の死なら美談かもしれないけど、ボロボロの体だけ残っても現実的には無理が。
だから患者側としては治療家が追求する結果とは違い、歩行に疲れた時には座らせてくれたほうが・サッと杖を差し出してくれたほうが、余程幸せという時間もあるだろう。

私は、障害児は幸せで恵まれていると思う。
同じ障害者からの助言で工夫ができるから。

「今の子は私の時より恵まれてる」って言葉、
きっといつの時代の障害者も言うんだと思う。
「最近の若い子は」って台詞と同じかな? 笑

だから、いつも誰でも同じような苦労はしてきたんだと思うけど、私は今、誰かに「身体は大切に」というアドバイスは出来ても、過去の不必要な苦労が取り消される訳ではないし、無理し続けたことで失った身体機能が戻る訳でもない。
だから成人になってから気づいても取り戻せないものもあると知れる頃にただ健常者の社会にひたすら無理して合わせるのではなく、身体を労わることの大切さを教えてくれる保護者や医療職や教育者に逢えたら、幸せだと思う。

歩くことが最善なのか?頭をかすめながらも、ただ歩くことを続ける私。
こうやって時々ふと考えながらも、「今は歩く」って去年に決めたから。
歩くことが最善の選択肢であるなら、その答えと真摯に向き合いたい。

きっと今は、「歩くことが、私の使命だから。」

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by ayanonano | 2016-05-04 12:30 | 脳性麻痺のこと | Comments(0)